たぶん、このブログをご覧になってくれた人たちの一番の疑問ではないだろうか?
大人になるに連れて、人はそれぞれの生い立ちや環境に応じて、自己流のからだ使いをからだに負い、呼吸もそれに応じて限定されたものとなって行く。とくに現代のような知能偏重の風潮の中では、からだの重心は上部にあがり、それに連れて腹部より上での呼吸が常識となる。腰や股関節・脚の呼吸へのかかわりは、忘れ去られてしまう。
この赤ん坊のときの全身呼吸の上に乗っかって、大人の呼吸は成り立っている。赤ん坊呼吸のベースなくしては、どんな呼吸法も成り立たないわけである。
レッスンの過程は、何かを積み上げていくプラス志向ではなく、本体(この場合は『赤ちゃん呼吸』)を残して残余を外していくマイナス志向となる。(この肯定的な意味での「マイナス志向」を理解することが大変難しい。時代の主流となる身体観から外れるのだろう。)
姿勢の理想を、赤ん坊の始めての立ち姿に求めることも、肯定的なマイナス志向につながる。
赤ん坊が始めて独り立ちをした瞬間、または立ち始めたばかりのころの様子は、なんとも頼りなく周囲の大人は転倒を心配してしまうくらい。けれどもその立ち姿には、大人のような硬さが無い、力みがまったく無いのである。むしろ植物が開花したときのような、思わず目を惹かれてしまうような、外に向かって開きだす柔らかく明るい雰囲気がある。意識的に身なりや振る舞いをまとう前の、基底となる立ち姿がここにある。(これも仮に『赤ちゃん立ち』と呼ぶ)
赤ん坊が始めて独り立ちをした瞬間、または立ち始めたばかりのころの様子は、なんとも頼りなく周囲の大人は転倒を心配してしまうくらい。けれどもその立ち姿には、大人のような硬さが無い、力みがまったく無いのである。むしろ植物が開花したときのような、思わず目を惹かれてしまうような、外に向かって開きだす柔らかく明るい雰囲気がある。意識的に身なりや振る舞いをまとう前の、基底となる立ち姿がここにある。(これも仮に『赤ちゃん立ち』と呼ぶ)
大人が立ち上がるとき、その姿には立ち上がろうとする意識と努力が見て取れる。私たちは普通、このような意識と努力を合わせて行動への意志と見なしている。けれども赤ん坊が立ち上がるとき、意識と努力と見て取れるものがその姿には無い。『赤ちゃん立ち』では「立とうとする意志そのものが立っている」姿がそこにある。そのような立ち方を私は理想としている。

さらに思い出すのは、我が師匠竹内敏晴氏のからだ。私が竹内さんのアシスタントをしていた時代のこと、「おいバン、ちょっと(からだを)ゆすってくれ」と、竹内さんにからだほぐしをたびたび頼まれた(バンは研究所時代の私のニックネーム)。竹内さんのからだはまるで赤ん坊みたいだった。透明感があり触れてみるとからだの中まで手が入っていきそうな柔らかさが全身を満たしていた。天才肌という言葉は、まさに竹内さんのからだの在り様をあらわすために在ったのだろう。