■背中の反り返り:写真[1]では背中がアーチ状に反り返っていて窮屈な感じ。動きを繰り返し[4]になると、アーチがゆるみ背中が床に張り付く感じ。
■股関節:[1]では股関節を挟んで、骨盤と脚の角度が「く」の字。そのためおへそを突き出している感じ。[4]では脚と股関節が真っ直ぐ。
■存在感:[1]は床に置かれた固い物みたい。[2]では背中側全体が床と溶け合ってゆったりとした感じ。
要は、動きを繰り返す中でからだ全体の緊張がゆるんだことになる。
寝転ぶ姿勢は、からだを休める姿勢である。けれども、ただからだを床に横たえただけでは、起きているときにからだに染み付いた無自覚の緊張が休息を妨げている。意識では休んでいるつもりが、実際のところ、からだ自体は充分に休めてはいないわけである。
ロシアの演出家、スタニスラフスキーが著述していたと思うが、「赤ん坊が寝ていた布団の凹みと、我々成人のそれとを比較してみなさい」とのこと。「赤ん坊の布団には、からだの輪郭線そのままに、人型の凹みが出来ている。大人の場合、頭・胸・尻と部分的に凹んでいて、床にフラットに寝ていない。首や腰の緊張を緩和して赤ん坊のような身体を、演技者は第二の自然として学ばなければならない。」と云うことだったと思う。
映画『グルジェフ』(ピーター・ブルック監督作品)には僧堂の修行として、岩を平らにしたベッドで眠ることを求められるシーンがあった。西洋文明の中で利便性を主にした生活が、人間の身体と精神を歪めていることからの解放の物語。
自ら普通人・健常者として、社会生活を送る者には、自らのからだとこころの歪みを、取り立てて意識する必要はないのだろう。
けれども、表現者や人間に関わることを仕事にする人々にとって、自らの歪みを自らの視座に入れて、活動することはとても大切なことだと思う。
砕けた云い方をすれば、自らの歪みの自覚のない人は「サービスを受ける人(観客・学生生徒・利用者・その他)にとって迷惑」だから。
現代文明社会を生きている以上、誰もが引き受けざるを得ない心身の歪み。このことに無自覚な人は、自ら抱えている無理を人に押し付けるから。
表現者・教師や介護者が心身をボロボロにしている。原因はコミュニケーションが成り立っていないからだと思う。自身の心身とのコミュニケーションが成り立たずに、他者とのコミュニケーションが成り立つはずがない。自他に無理を課し、自他を痛め付けることに、評価を与えさえする。勘違い窮まりない。
ちなみに、ヨガでは「シャバーサナ」(屍のボーズ)と呼んで、仰向けに寝転んだ姿勢をとても大切にしているようだ。自我の支配力を休めて、自然との一体感を息(生き)る。この野口体操の動きはシャバーサナへの門をひらく。
映画『グルジェフ』(ピーター・ブルック監督作品)には僧堂の修行として、岩を平らにしたベッドで眠ることを求められるシーンがあった。西洋文明の中で利便性を主にした生活が、人間の身体と精神を歪めていることからの解放の物語。
自ら普通人・健常者として、社会生活を送る者には、自らのからだとこころの歪みを、取り立てて意識する必要はないのだろう。
砕けた云い方をすれば、自らの歪みの自覚のない人は「サービスを受ける人(観客・学生生徒・利用者・その他)にとって迷惑」だから。
現代文明社会を生きている以上、誰もが引き受けざるを得ない心身の歪み。このことに無自覚な人は、自ら抱えている無理を人に押し付けるから。
表現者・教師や介護者が心身をボロボロにしている。原因はコミュニケーションが成り立っていないからだと思う。自身の心身とのコミュニケーションが成り立たずに、他者とのコミュニケーションが成り立つはずがない。自他に無理を課し、自他を痛め付けることに、評価を与えさえする。勘違い窮まりない。
ちなみに、ヨガでは「シャバーサナ」(屍のボーズ)と呼んで、仰向けに寝転んだ姿勢をとても大切にしているようだ。自我の支配力を休めて、自然との一体感を息(生き)る。この野口体操の動きはシャバーサナへの門をひらく。