2011年10月07日

ひらく

野口三千三の云う「貞く」と竹内敏晴の「集中」とは、同じ言葉(ことの端)。後戻りの利かない地点に立ち一歩を前に踏み出すこと。繰り返し自らを投げ出すことで、私は新たないのちを生きる。後戻りの利かない地点に立ち尽くすことが、何より難しい。前に進んでいるつもりで実は同道巡りしているのが我ら凡夫。それを劈く(つんざく・ひらく)ために「きく」。


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2011年10月05日

回復

竹内敏晴は自己の根源(=からだの深み)に於いて他者の声・言葉を「聞き」その表現を受けとめた。彼の青年期までの聾唖者としての人生は並外れた集中力を養った。以降その集中力(=「聞く」ちから)をもって演出家・からだとことばのレッスン者として、言葉の力(生命力=いのち)の回復に尽くした
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2011年10月01日

【知恵】+【9】 『お尻の妙なる響き』

【知恵】

お尻を敲(う)ったあと、投げ出された足・脚・肢の動きの勝手気儘なこと。投げやりとも云う。
足・脚・肢の力が抜けているので、脚先は落ちた勢いで跳ね上がる。脚の向くまま、脚任せである。



現代人は、手先と頭の知恵を偏重し過ぎて、からだとこころのバランスを崩していると私は考えている。

からだの知恵、特に足腰の賢さを犠牲にしてしまったために足元が覚束ない。そのためいつも不安が治まらない。
なんとかして安定を得ようと、頭の知恵で「余計なもの」を次からつぎへと作りだしてその場しのぎをしている。肝腎の「足が地に着かない不安感(心)」を省みることは無い。このままだと人間自体が「余計なもの」になりそうな勢いだ。

足腰に知恵があるか?と云われそうだが、歩く知恵、立つ知恵、子供を産む知恵、食べ物を消化吸収排泄する知恵、etc、etc。いくら知脳が大切だからといって、脳みそが歩くわけではない、子を産むわけもない。頭の知恵や手先の知恵も含めて、からだ全体の知恵が対等に関わりながら協力し、安定を保っていくこと、それが本来の人間の在り方ではないだろうか?

では足腰の知恵を育てるには、どうしたらよいか?多くの人は、筋トレを思い浮かべるだろう。スポーツやウォーキング、ヨガなど、筋肉を鍛えることが必要と思うのではないだろうか。筋トレ・脳トレと鍛えることが流行っているが、私は基本的に、筋肉を鍛えることには反対である。私はからだの感覚(感受性)を育てることを大切にしている。

足腰にも足腰ならではの言い分がある。その声に耳をかたむけることなく、我武者羅に筋肉を鍛えたり柔軟運動を無理強いすれば、足腰の知恵は黙殺される。逆に、足腰ならではの言い分を受け入れさえすれば、足腰は状況に応じて自身の知恵を発揮して、的確な感覚と筋肉を発達させる。

私は筋肉を鍛えることはしないで、こんな動きを丁寧に繰り返す。

siriut_01.jpg

これは筋トレの逆、云わば「脱力系」の運動である。

手先と頭の知恵を偏重するということは、胸から上とその前面に感覚(知覚)が集まってしまい、それ以外のからだの感覚が無視され、その言い分が注意(意識)の圏外へ置かれてしまうことである。また足腰が力んで緊張すれば、感覚(感受性)は働かなくなる。鍛えるという考えや緊張努力を捨てることを大事に、この動きをやってみる。足腰の動きの様々な変化にまかせて、からだ全体の緊張をゆるめる。

この動きが気持ちよく出来るようになってくると、脚全体の、地面の変化への感受性が豊かになる。歩くときに踏み出す一歩一歩が、それぞれに瑞々しい新たな一歩となる。歩くことが心地良くなり、余計なものの何も無い、歩くこと自体の安心感と満足感が得られるようになる。

満足を足を満たすと読むと面白いかもしれない。からだの知恵に足を満たして心安らぐ動きだ。『脱力系ゆるみけーしょんトレーニング』なんて云う呼称も好いかも。


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