2011年09月28日

【姿勢・表現】+【8】 『前突き!〜☆』

【姿勢・表現】

からだは勢いの通り道である。す(素)のかたち(形)を姿と云う。
勢いに充ちた、そのひとならではの表現を、姿勢と呼ぶ。

『四股の姿勢』から、わずかに腰を落とす。全体重が地面にかかり、両足の裏から反動が帰って来る。腰を持ち上げずに堪(こら)えれば足腰に力が充ち、反動の勢いは、からだの内側を立ち登り、肩を通じて腕を抜けて指先から迸(ほとば)しり出て外部(の対象)に向かう。
勢いの通り過ぎた胴体は空っぽとなり、肩から先の腕は吹き流しのようにフワリと落ちる。



指先が突き出された瞬間に、からだ全体が静止しているのが分かるだろうか。一瞬ではあるが、大地に根を下ろしたようにからだ全体に力が充ちたまま静止している。この瞬間、指先から外部へと迸る勢いに拮抗する力が、からだ全体を充たしている。

からだ全体の表情からは、曖昧さや不透明さ・だらしなさが払拭され、からだ全体の輪郭がはっきりと立ち上がってくる。この在り様を舞台用語では、『からだが決まる』と云う。能舞台での演者はこのように、からだ全体に力を満たした状態で演技をしなければならない。これも舞台用語をつかえば、『からだの集中の次元が高い』状態と云う。

演劇に限らず、表現するということの基本は、自分の内側に在る感情やイメージを、他者に向かって顕(あらわ)にすることである。とくに自らのからだ=こころの深みに潜む、高いエネルギーをもった感情やイメージを外部に向かって表現することが求められるときには、それに拮抗して自己を支えるからだ全体の力が必要になる。

maetuki01.jpg

『前突き』の動きには、自己を表現するためのからだの原理原則が含まれている。

自分の内側を表現しようとするなら、表現(行動)の対象にに向かってからだ全体でもって集中すること。
そして自分の深みを表現するならばその内容のもつ勢い(エネルギー)に拮抗するだけの力を、からだが持てなければならない。
表現の通り道としてのからだは緊張によってその通路が閉ざされることの無いように、日常的なからだの自己イメージを超えて大きく広く支えられ、開け放たれていなくてはならない。
そのためには集中への準備段階として、からだ全体が変化に対して自在に動き対処できるよう、緊張を『ゆるめて』解きほぐしからだの感覚を研ぎ澄ませておかねばならない。

結論を少々急ぎすぎ、舌足らずかも知れないが、、、、「真実本当の自分を表現したいと思うならば、日常的な力ずくの表層的な頑張りでは到達できない、より深い次元でのからだの集中が求められる。表現をする喜びと開放感はここにある。」と、私は思っている。





posted by セトジマミツル at 03:10| Comment(0) | ストレッチ体操 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月25日

【不安・不安定・安心】+【7】 『四股の動き』

【不安・不安定・安心】

安定した姿勢である。重心は足腰に落ち着き、上半身は鉛直線(地球の中心点と天頂を結ぶ線)が体軸と一致していてすっきりと軽く安定感がある。

shiko.jpg

東洋的な身体観ではこれを「上虚下実」と呼ぶ。上半身は空っぽで力みがなく(虚)、下半身に力(エネルギー)が充ちて
(実)いる状態。

正月飾りの達磨さんがその象徴である。「七転び八起き」と云う。転んでも転んでも立ち上がって来る。野口三千三先生は「
したたか(健か・強か)」と説明していた。したたかとは「したたしか(下確か)」だと。次いでながら、「地に足が着いた生き方」と云う言葉もある。

この姿勢、爪先を出来る限り外側に向けてから、脚を鈎の字にするのでとても不安定。股関節を割り込むようにして直立した胴体を鉛直方向に下ろして行くときは、まるで綱渡りのような、からだ全体のバランス感覚への集中が求められる。倒れるか倒れないかのギリギリ微妙なところでバランスをとる。そのうえ脚の筋肉は総動員を求められ、普段は使わないため退化してしまっている筋肉も参加させられる。辛くて悲鳴をあげる。「ヒーッ!タイヘン!」となる。

そんな内側の状況をそのまま堪(こら)えて、からだを真っ直ぐに大きく支える。
やっている本人は気を抜けない。抜いたら姿勢が崩れてしまう。腰が充分に下りたところで、両手を挙げて「大の字」のまま静止。慣れないうちは10秒ともたないが、このときの立ち姿は、みんな堂々として美しい!自分の新たなからだの回復である。

外見は落ち着いて堂々として見える姿勢だが、内心は「ヒーッ!タイヘン!」の姿勢。実はこれがとても大切。
敢えて不安定な姿勢をとることで、普段の安定が崩れたところでからだ全体の隅々にまで、より深く繊細なバランス感覚を働かさなければならない。結果として、その姿からは日常的な曖昧さやだらしなさがそぎ落とされ、堂々として張りのある、それでいて開放感を伴った姿が現れる出る。

文明化は、生活の中から足腰の感覚を育てる機会を奪ってしまった。からだを支える足腰の感覚能力が低下することは、からだの土台におけるバランス対応能力を失うことである。足腰が能動的に変化しつつ姿勢を下支えし安定を保つことで、上半身は人間独自の細やかな作業や表現に専念することが出来る。

ところが足腰の働きが鈍く硬くなってしまっては、その不安定さを上半身の筋緊張でもって補わなければならない。脚が棒になり腰が固まれば、固定することなく地面に立てられた直径30cm高さ80cm余りの柱の上で、バランス曲芸を強いられているのと一緒である。これが不安の根本原因である。どんなに巧みにからだの安定を取るために、知恵を働かして手段を講じても、足腰の感受性が復活されない限り、不安は解消されることが無い。これでは落下や転倒の恐怖のために、こころが安心できないのが当然である。

短絡的に足腰を鍛えればいいと、筋力を付けることに一生懸命になる人がいるが、それでは感覚は育たない。
この動き(ポーズ)を適度に繰り返すことで、脚の筋感覚が目覚め、必要に応じて様々な筋肉がバランスよく発達してくる。からだの本来もっている安定が戻ってくれば、自然気持ちも安定感を取り戻す。やっと安心できるというものだ。


動作の詳細は【7】『四股(しこ)の動き』を参照して下さい。


posted by セトジマミツル at 23:07| Comment(2) | ストレッチ体操 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【理想・目標】+【6】 一点逆立ち

【理想・目標】

私がレッスンを通じて目指しているのはなにか?
たぶん、このブログをご覧になってくれた人たちの一番の疑問ではないだろうか?


呼吸と姿勢に関して云えば、赤ん坊が泣き声をあげているときのからだ全体の動きが呼吸の理想、赤ん坊が始めて立てるようになったときの立ち姿を姿勢の理想と、私は見ている。

赤ん坊が泣いているとき、胴体が大きく張り詰めて膨らんだり絞られたり、赤ん坊は手足も含めた全身で息をし自分を主張している。
大人になるに連れて、人はそれぞれの生い立ちや環境に応じて、自己流のからだ使いをからだに負い、呼吸もそれに応じて限定されたものとなって行く。とくに現代のような知能偏重の風潮の中では、からだの重心は上部にあがり、それに連れて腹部より上での呼吸が常識となる。腰や股関節・脚の呼吸へのかかわりは、忘れ去られてしまう。

それにも拘らず、赤ん坊のころの全身呼吸は、私たち一人ひとりのからだの中に常に息づいている。大人になってしまうと感じることも理解することも出来なくなってしまうのかもしれないが、私たちのからだの基底において全身呼吸が、生命活動を支えている。
この赤ん坊のときの全身呼吸の上に乗っかって、大人の呼吸は成り立っている。赤ん坊呼吸のベースなくしては、どんな呼吸法も成り立たないわけである。

私のレッスンの一つの志向は、私たちみんなのからだの中に息づいている、この赤ん坊のときの全身呼吸(以下仮に『赤ちゃん呼吸』と呼ぶ)を感じ取る能力を、自分の中に育てていく作業である。そのために、からだの緊張を緩め、細やかな感受性を育て深めていく。とくに普段はあまり注意を払うことの無い、胴体背側の感覚と腰から下の肢・脚・足の感覚を緩め育てていくことに重点を置いている。

一般に、呼吸法を学ぶ場合は、目的に応じて様々な呼吸や息遣いの知識ややり方を身に着ける訳だが、私のレッスンでは何かを身につけるということはしない。『赤ちゃん呼吸』は意識できていなかったり理解していないとしても、元々誰もが無為自然にやっている呼吸である。既に誰もが我が物としてやっている呼吸なのだから、自らの呼吸に注意を払えばよい。そして『赤ちゃん呼吸』への気付きを妨げている原因があれば、それを外していくのが『からだZEROレッスン』(ゆるみけーしょん体操)の道筋である。自分=『赤ちゃん呼吸』となることを目指しているとも云える。

レッスンの過程は、何かを積み上げていくプラス志向ではなく、本体(この場合は『赤ちゃん呼吸』)を残して残余を外していくマイナス志向となる。(この肯定的な意味での「マイナス志向」を理解することが大変難しい。時代の主流となる身体観から外れるのだろう。)

姿勢の理想を、赤ん坊の始めての立ち姿に求めることも、肯定的なマイナス志向につながる。
赤ん坊が始めて独り立ちをした瞬間、または立ち始めたばかりのころの様子は、なんとも頼りなく周囲の大人は転倒を心配してしまうくらい。けれどもその立ち姿には、大人のような硬さが無い、力みがまったく無いのである。むしろ植物が開花したときのような、思わず目を惹かれてしまうような、外に向かって開きだす柔らかく明るい雰囲気がある。意識的に身なりや振る舞いをまとう前の、基底となる立ち姿がここにある。(これも仮に『赤ちゃん立ち』と呼ぶ)

大人が立ち上がるとき、その姿には立ち上がろうとする意識と努力が見て取れる。私たちは普通、このような意識と努力を合わせて行動への意志と見なしている。けれども赤ん坊が立ち上がるとき、意識と努力と見て取れるものがその姿には無い。『赤ちゃん立ち』では「立とうとする意志そのものが立っている」姿がそこにある。そのような立ち方を私は理想としている。

立つことの基底にあって、私たちの姿を支えている意志の働きに身をまかせる練習(レッスン)が、写真の一点逆立ちである。

sakadati.jpg

意識的な緊張や努力によらずに、からだ全体を満たす、立つことの意志に自己を預ける。自然の理に負かせて立つべくして立つところ。その地点を全身で探るのがこの『一点逆立ち』である。

からだ全体の感覚に集中し、からだの意志の現われを妨げる緊張努力を解きほぐし手放していく。結果として、立とう・立たせようとする自分(意識)とそれに従う身体と云う、自己内の分離分裂は消え去る。何の計らい(計算や努力)もなく、ただ立つべくして立っている自分が在る。自然の働きに自分を預けきった独特の安心感と心地よさがある。無為自然と云う。在るが儘と云う。

野口三千三先生は「自分とは自然の分身としての自分」であると云っていた。野口体操はそのような意味での自分を発見するための実践である。
さらに思い出すのは、我が師匠竹内敏晴氏のからだ。私が竹内さんのアシスタントをしていた時代のこと、「おいバン、ちょっと(からだを)ゆすってくれ」と、竹内さんにからだほぐしをたびたび頼まれた(バンは研究所時代の私のニックネーム)。竹内さんのからだはまるで赤ん坊みたいだった。透明感があり触れてみるとからだの中まで手が入っていきそうな柔らかさが全身を満たしていた。天才肌という言葉は、まさに竹内さんのからだの在り様をあらわすために在ったのだろう。


posted by セトジマミツル at 03:10| Comment(11) | ストレッチ体操 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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